見えない世界。
- Bunnyz Web Design
- 2011年2月28日
- 読了時間: 2分
今日は品川の「総合区民会館(きゅりあん)」大ホールで講演会でした。舞台裏で待っている自分の後姿の写真をもらった。
明るいスポットにあふれた会場
と舞台袖の自分。
光と陰。舞台の始まる前の静寂と拍手。人にも光と陰がある。心理カウンセラー衛藤を知る人は、僕は明るい性格だと思っている。でも、ある瞬間の僕は人嫌いかなぁ⁈ と思うほどに、自分ひとりになりたいこともある。人は誰もが「光」と「陰」を併せ持っている。人は誰でも明るい側面もあり、暗い側面もある。前向きな時もあれば、後ろ向きの時もある。優しい側面もあれば、誰かのために冷たくしかできない瞬間もある。人はダイヤモンドのように多面体の存在なのです。そのシャドー(陰)の自分を自分の一部としてつきあえるから。自分を嫌わないですむ。嫌わないから、他人の中に同じような弱さを見ても、相手を責めないで、弱さを持った人を見つめられる。認知症の高齢者を抱えた人が言った。夜中に街をウロウロ(徘徊)したり、自分の汚物をぶつけられ、ご飯を壁に投げられて金切り声をあげられると、さすがに疲れて、ふと「この生活はいつまで続くの••••もう、死んでほしい」と、そして自分の恐ろしさに気づいて怖くなる。それは、親の死を一瞬でも望んだ、ということだから••••そんな経験も、究極に追い込まれたことのない平和な人は、正義の論理で、倫理の刃で、その人に切りつけ裁くのです。「あなたは間違っている」•••••と自分が経験していないことには、誰もがクールな正義の裁き人になる。僕は、経験していないことはすべて一般論としか語れない。ロジャース博士の「沈黙」も何もない静けさではなく、あらゆる角度を考えて観察し、悲しみに寄り添うことしかできないという雄弁の沈黙です。常識、非常識!正しい、間違い!とすぐに反応する時代に「陰」をも理解する大きな知恵者に僕はなりたい。人は、いろいろと経験をするほど静かになるもの。だから、すぐに結論を出せない。その騒がしくない、優しく人を見つめる静けさが僕は好きだ。また、そんな静かな優しい大人に僕は子供の頃から憧れた。だから、人前で明るく話す僕も好きだが、講演前の静かにたたずむ舞台裏の自分の写真が妙に気に入ったのかもしれない••••
そして、光りの中へ
留言