生き慣れと、死に慣れるまで…
- Bunnyz Web Design
- 2018年5月23日
- 読了時間: 2分
若い時代は目まぐるしく人との出逢いがあった。 学年が変わるごと、進学するたびにと…社会に入っても、それは続いた。 だから、人との関わりに疲れている若者の気持ちもわからなくもない。でも、ある時期からネジが反転するように、悲しいかな、別れのほうが増えてゆく。 若いうちは、頼んでもいないのに、増えてゆく人間関係のうねりの中に巻き込まれ、苦慮していたこともあった。
もちろん、今でもそんな事がない訳ではないのだが、かなり付き合い方が、手慣れて来たような気もする。サラっとした付き合い方や、適度な距離感も、そして、去る者は追わず、来る者は、心地よさという篩(ふるい)にかけて… すべての人に好かれたいとか、認められたいとも思わなくなったし、取りまきの多くがステキな仲間なので、その周辺にポジショニングができると、その彼らの評価で、僕は、さして実力など無いのに、僕自身では考えられない高評価をもらって、僕はあたふたと、あわててしまう💦まさに恐縮ものなのです。 だから、若い人に言いたいのは、そこそこ「生き慣れはある」と言うこと。これは自分自身になれ、人との付き合いになれ、仕事になれ、生きることに“慣れ”てくる。
だから、今が生きることに苦しいなら、生きることに慣れるまで生きるしかないのだ。
僕は次の課題は、周囲の別れや、死に慣れるまで、生きないといけないと思っています。これは、たぶん自分の死より、やっかいで手強い。おそらく自分の死のほうが楽だと感じます。 ペットの死から、近親者の死。 もしかして、若さの死もあるのか?と思うと僕は打ち消したくなる。
でも、「一生、青春!」と言っていた西城秀樹さんも亡くなった。
僕の幼い頃のカッコいい大人、スターでした。
でも、インディアンの言うように「亡くなってからも、たった一人でも、誰かの心に残ればいいのさぁ…それだけで十分だ」
命は時間を超えられない。でも、その人の笑顔や、会話や、香りや、キラキラした季節や、誰かを愛した情熱。それらの思い出は大地と青空に溶け込んで、永遠にキラキラと空気の中に存在していてもらいたい✨ 子どもの頃に聞いたセミの声は、今年も降り注ぐことだろう。宿題から解放された、今の僕にも。たとえ、セミの世代が何代変わっていたとしても、あの頃と同じように… ただ、少しだけ、今は「生き慣れたのかなぁ…」と思える大人の僕にも… これからは、さよならに慣れるために、別れの予行演習にしますね、ヒデキさん。あの頃の若さを永遠にとどめて、あなたが、空に溶け込むことを切に願います。
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