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イジメ問題の裏にあるイジメ…

 テレビで、少年たちが川で、一人の少年を川の深みに追い込み、二人で覆いかぶさったりして、ふざけていた。そのふざけ(イジメ⁈)が、段々とエスカレートして、その被害少年は、川底に沈み一時、心肺停止になったという。 そのビデオで映っている中では、川に沈めた二人の少年は、川底に沈んだ友人を、助ける素ぶりを見せなかったという。 そして、それを離れた橋の上から撮影していたのも、女子高生達でした。 動画には、最初は女子高生達の笑いも入っていました。でも、そのうちに「イジメだよ」「まじじゃん」「きゃー!」と、緊迫感も感じ取れました。 どちらにしても、悲しいショッキング動画を再現した、イメージ映像になってました。 友達を沈める行為、それを止めない仲間たち、そして、それに制止する声もあげないで撮影を続ける女子高生達。 もちろん、コメンテーターからは「コレはイジメではなくて犯罪だ!」「そんな時は、撮影してないで、助けるベキでしょう」「これは高校生で、14才を過ぎているので刑法で裁けます。いや、裁かねばならない」と… 僕も内容がショッキングなだけに、映像が流れている間、やるせなさと悲しみを感じていました。 被害者の少年は、快方に向かっているそうですが、川に沈んだ記憶は完全に失われているといいます。 その被害少年の母親は「そのビデオを見ながら『こちらにおいで、こちらに~』と、私が助けてやりたいと思いながら、一生懸命に泳いで、足のつく所に戻ろうとしている、我が子が可哀想で、涙が止まらなかったと…もし、加害者である二人の少年の親たちも同じ立場の状況で、ビデオを見れば、そう思ったはずです」と… 僕も、その母親の気持ちに、共感して、涙した。 ただ、テレビでは、誰が、その少年を川底から救ったのか? 心肺停止した少年が、どのように助けられたのか? わからないまま、放送は終わりました。 コメンテーターの話も、あの少年も、撮影していた少女達も「裁かなければ!」と言う雰囲気で、そのコーナーは締めくくられた。 だけど、僕は思う。 すべての罪を少年や少女の責任にしても、大人は良いのかと…

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「今の子供達は

むかっ

」とだけ言えないことは、大人の世界にでもある。 誰かの責任にして攻撃し合う、政治や、マスコミや、私たち… その番組でも、結局は、学校が、子供達が、親のしつけがと、言う結論で終わり、笑いながら次のテーマの番組へと移って行った… 撮影した少女たちや、その二人の少年のあまりにも度を越したフザケ(イジメ)の代償、それを、ノリで見ていた少年たち。さらに、その関係者の家族の心に残るキズなど「自業自得だろ」とでも言うように、進行されて行くテレビ番組。 誰にでも、フザケているつもりが、いつの間にか、相手を傷つけていたという経験は、一度や二度くらいは、人生であったはず。 それが、とんでもない事になった場合と、ならなかったケース。 僕が一番、嫌悪を感じるのは、正義の名の上で、自分を省みないで「正義」を振りかざす人びと。 間違わないで頂きたいのは、だから「イジメを認めましょう」ではなく、誰もが「自分には関係ない」では問題は解決しない。 「イジメを止めましょう」と、芸能人を出演させて言わせるよりも、芸能人が「人は、ついつい気がついたらエスカレートする恐ろしさが、自分にも、相手にもあります。だから、誰でも加害者や被害者になるかもしれません。だから、みんなで『もう、止めろよ』と言える勇気を持ちましょう!」と伝えるほうが大切なのです。 被害者が加害者になる場合もあるし、その逆もあります。 売れない芸人を小馬鹿にするテレビ番組もあるのだから。だから、正義の顔は誰にもできない。 だから「今の子供達が悪いからだ」という決着を、安易に誰かに犯人を押し付けるのは意味がないのです。それこそが、今度は「社会のイジメ」になってしまう。 僕は思います‼ 「批判」からは新しいものは何も生まれない。真実が生まれるのは「自己反省」からだと思っているのです。 事実、テレビのコメンテーター達も、「集団になると興奮がエスカレートするから子供達は怖いですね」と、加害者の少年と、制止もしないで撮影していた少女を責めるだけで「私たち大人も反省しましょう」とは、どのコメンテーターからも意見は出ませんでした。 テレビ局側の雰囲気で、イジメた高校生を批判するだけで「これは私たちも反省しなければなりません」と、コメンテーターとして、周囲から孤立してでも「イジメる子供達も、イジメられる子供達も、社会の被害者かもしれません」と擁護する意見も必要なのです。 「みんなで大人達も自己反省しましょう」と言う意見が誰からも出ないまま、大の大人が興奮して誰かを裁く。 テレビは視聴者に「今の子供達は

むかっ

」と苛立ちだけを与えて終わるのがテレビ番組のパターンなのです。 コメンテーター自身が「集団は怖い」と言いながら、テレビやコメンテーター集団に合わせて、加害者を責めることだけに終始してしまう。それこそが自分で言った「集団は怖い」を証明しているのです。 誰かが悪いと、犯人探しをするだけでは、イジメの問題はトカゲのシッポ切りで、何も解決しません。 その少年を沈めた、加害者の少年にインタビューしていたが「あれはイジメではなく、ジャレていただけ」とモザイクの中で語った。 それを見て「何を言うか!」

むかっ

と思う気持ちは僕にもあります。 でも、一方では、それが本音かもしれないとも僕は思うのです。 人は誰もが、コメンテーターもそうであるように、集団になると古今東西、個人の判断能力は下がるのが、人間の恐ろしさです。 だからこそ、僕たちは集団の中で「自分自身の恐ろしさを、監視しなければならないのです」それが教育なのです。 ただ、誰かが悪いと思うのがイジメの第一歩なのです。 「アイツがクラスの雰囲気を壊しているから」 「ヤツがヘラヘラして笑っていて何を考えているか、みんなに分からなくて気持ちが悪いから」 「あの子が、私の大切な友達を傷つけたから」 怖いのは、イジメている側にも「自分が正しい」という正義があるのです。 僕が何度も、ブログで書いて来ました。 正義が、戦争や他者への迫害を起こしてしまうのです。 あの頃の日本で、戦争時に声高に「戦争はよくない」「人殺しはよくない」と叫べた大人が何人いたでしょう。 それを考えれば、子供達にだけに、すべての悪を押し付けるのは、大人げないのです。 だからこそ、僕たちには「教育」が必要なのです。 どんな教育か、 いいかい、「僕たち人間は、間違う可能性がある動物」だから、自分が間違っていないかをつねに疑いましょうと。

本

だから、コメンテーターも、僕たち大人達も、子供達を責める前に、僕たち大人が、姿勢を正すことが大切なのです。 僕の好きなアーネスト・ヘミングウェイが「人間の勇気とは、窮地に陥った時に、見せる気品のことである

ひらめき電球

」と語っています。 自分も間違う動物です。だからこそ、誰かを責めてばかりいないで、自分の周囲から、誰かを、攻撃すること、責めることを、まず止めましょう。 それこそが、イジメをなくす、模範となる大人なのです。何より、大人が興奮しないで落ち着いて大人として、子供たちを守りましょう。 だから、子供だけを批判するのは大人げない‼ 誰かを攻撃する言葉よりも、行動を!

$日本メンタルヘルス協会:衛藤信之のつぶやき

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